<父親捜し>とは?
― 内山 馨氏の父親捜し ―

[<白い依頼状>の理由] 

内山馨氏写真2世たちが父親のことを知るのは、おもに母親からですが、母親の中には、インドネシア独立戦争中に、父親の名前や住所などを書きとめたノ―トを焼いた・盗まれたなどの理由から、父親の情報をもたない人がいました。
日本語が難しく、名前や兵隊の階級などを、誤認のまま記憶している母親も少なくありません。戦争中のことは語りたくないと、子どもに父親のことを伝えなかった母親がいることも<白い依頼状>の理由に挙げられます。

[内山馨氏のプロフィール]

1923(大正12)年11月16日、長崎県生まれ。20歳で通信兵・2等兵としてジャワ島へ出兵。2年半の軍隊生活で帰還。戦後、全国紙の新聞記者、55歳で定年退職。
71歳で、「JIN(じん)」の中心人物・ヒデコ・ギスケと大阪で出会い<父親捜し>を開始。氏は定年退職後から、蘭印の歴史や戦争中のできごとを丹念に調べ知識が豊富でした。この基礎知識が<父親捜し>の成果を生む源になっています。

[内山馨氏<父親捜し>の実績]

15年間で受託した依頼状は75通。このうち「調査可能」は43通、父親の名前が3つあるなどして「調査据え置き」が32通。この43通が「調査可能」とはいえ、依頼状は空白・誤認だらけですが、この中で「家族到達」したのが30件あります。残りの13件については「全家族死亡・家族の消息不明・インドネシアで戦死・敗戦後インドネシアで行方不明(残留日本兵)」と、結果を出したものの家族に会えなかったケース、これが9件。あとの4件は、オランダの依頼主が「重度の認知症・病気・死亡・移住」により中断したケースです。「家族到達」した30件の中で、2世を父親の実子と認めなかった「拒否家族」が10件、認めた「交流(受容)家族」が20件。「交流家族」のうち「父親と子どもが対面」したケースは2件のみ。氏によると「厚生労働省(元厚生省)が、氏の調査で判明した、父親の帰還船の乗船者名簿を開示して下されば90パーセントは成果を出せた」と言います。なぜ、これまでに厚生労働省が、内山氏を中心に官民一体の支援態勢をとらなかったのか、疑問がつのります。

[日本政府の姿勢]

外務省は1998(平成10)年から年に1回秋に10日ほどの日程で日系2世を日本へ招待する「日蘭平和交流事業」を実施。(以前は「日蘭架け橋計画」の名称です)。この計画で79人が来日しています。「日本へ行ったら殺される」「日本人は恐い」と、子どものころから、反日の悪感情を刷り込まれてきた彼らにとって、初めて踏む日本の地に、感激したという声は少なくありません。「日本で私は目立たない」。父親の母国である日本に誇りを抱いたという2世は多く、評判の良い企画旅行でした。2009年が最終年。これまで<父親捜し>の窓口である厚生労働省には前向きな姿勢はありませんでした。<白い依頼状>の解決には、政権交代した現・厚生労省・政府に大きな期待を寄せています。

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